総柄はTシャツらしさを奪う
(上の二つは参考図として作ったものです)
上のような総柄のTシャツはほとんど見かけない(ボーダー柄を除いては)、というのは何故でしょうか?
それは、もしTシャツに総柄を施すとTシャツらしさが失われるからだ、と考えられます。
「Tシャツらしさ」とは「楽」、すなわち「緩(ゆる)」であり「軽(かる)」でした。Tシャツにおける総柄は、この「軽」を失わせ、そのTシャツを重く感じさせるのです。
ここで、Tシャツではなく、他の衣服たとえばワイシャツでもブラウスでも、ジャケットでもスカートでも、何でもいいのですが、そういった衣服で総柄のものを見るときのことを思い出してみて下さい。
私たちはそのとき、「これはこういう柄の生地で作られているシャツ(スカート、その他なんでも)だな」と考える、と言うか、意識する、のではないでしょうか。
そういう柄の布地を裁断し裁縫して作ってあるな、と。
つまり、総柄は生地を意識させるのです。
もちろん、無地の衣服についても、生地に注意は向きますが、総柄のときは特にそのような気がします。というのは、私たちは、この柄はどんな生地に施されているのか、どんな生地でこの柄を作り出しているのか、ということを考えずには、いられないからです。
柄とは「見た目」ですから、その見た目に惑わされず、しっかり生地を見きわめよう、という意識がはたらくのだと思います。
こうして、総柄の衣服を見るときは、「こんなデザインの衣服だ」とか「こんなデザインの衣服をこの人が着ている」とか意識しながら、その衣服の「生地」というものにも、知らず知らず、意識が向いてしまっています。
生地とはモノです。モノは重さをもっています。生地を意識するとはしたがって、衣服の素材の重さを意識することです。
絹のブラウスとレザーのコートを見るときの気持ちを両方とも思い浮かべてみれば、私たちは、一般的に衣服を見るとき、その「重さ」というものを意識している、ということに気づくはずです。
さて、そこでTシャツです。
私たちは、誰かがTシャツを着ているのを見て、そのTシャツの重さなどというものを意識するでしょうか。決してそのようなことはないでしょう。Tシャツは重さを感じさせません。特に、白の無地のものは重さという感覚とは無縁です。
私たちは、白の無地のTシャツを「白い色のTシャツ」とは意識しません。むしろ、「色のついてないTシャツ」と感じます。これは、一般的に私たちは、色の感覚としては、白については「白という色がある(白い色がついている)」とは感じなくて、「色が無い」と感じるのです。
画用紙を見ても、白い色の紙、とは考えません。色のついていない紙だと普通は意識しています。「潔白」とは罪が無いことですし、真っ白いウェディングドレスは純潔無垢であることの象徴です。このように普段の暮らしの中での私たちの意識においては、「白」は「無い」に結びついています。
ですから、白の無地のTシャツが、その生地を意識させることなく、衣服としての重さを全く感じさせないのも当然であるわけです。
そしてさらに、例えば胸の部分に文字とかイラストが施されている(つまりTシャツ全体にではなく一部に)と、私たちの意識はそちらへ向き、生地へ意識が向くことはいっそう少なくなります。
ところが総柄だと様子が違ってきます。総柄を見ると、先ほど言いましたように、こんな柄の生地で作ったのだな、と私たちの意識はどうしても生地へ向かってしまいます。
たとえそれがTシャツであろうとも、「総柄は生地を意識させる」というメカニズムは働いてしまうのです。その結果、そのTシャツは、生地の重さを意識させ、「軽(かる)」というTシャツらしさを失ってしまうのです。
カラーTシャツは無地であっても、白の無地のものより重さを感じさせます。色は何らかのモノを連想させるからです。
最後に、Tシャツにおける唯一の総柄と言えるボーダー柄について触れる必要があるでしょう。ボーダーはなぜ受け容れられているのでしょうか?
それは、ボーダー柄においては、視覚心理学的に、生地を意識させる力より、「おだやかさ」・「平静さ」などを連想させる力の方が勝っているからだ、と考えられます。
そのような感じを与える理由については、昨年の11月9日の記事に書きましたので、読んでみて下さい。
今日は、一般的な総柄について考えましたが、下のような、イラストを全面に施すタイプについてはどうでしょうか。これについては次回ということにしましょう。
(上の二つはいずれも、ピエ・ブックス発行の『T-SHIRT GRAPHICS』から転載させていだたきました)








































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